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 谷間に正面から朝日が差し込み、厚い残雪に木立の長い縞模様が現れた。巨大な影絵の中でやっさんが僕を呼ぶ。硬い雪面は長靴で簡単に歩けるが、油断すると落とし穴のように踏み抜いて腰まで沈んだ。倒木が隠れてたな、とやっさんは笑った。
「坊主、これは何に見える」
 背が低い木の二股に、器型の小枝細工が乗っていた。均整の取れた小さなお椀のようで、昔見た土産屋の民芸品を思った。そんなわけはないが。
「何かの巣」
 メジロの巣だ、とやっさんは言った。彼は無駄なことをたくさん教えてくれる。得体の知れない隣人だと嫌がる母より、僕はやっさんといる方がまだ気が楽だった。
「そろそろ戻ってくる時期だな。この巣も使い回されるかもしれん」
 僕は巣に産みつけられる卵や雛を適当に想像した。親鳥は飛び回って餌を探すのだろう。頭上は葉が茂るはずの空間を持て余した枝たちが様々な伸び方で空を這っている。
「その前に山火事にでもなったら、どうしようもないけど」
 皮肉っぽく言ってみた。やっさんは顎髭を二、三撫でてから、
「俺は現場監督やってな、山一つ消したことがあるぜ」と返した。面食らった僕は言葉を掴み損ねた。
「そういう理不尽もある」
 やっさんは斜面際の大木に近づく。燻んだ白っぽい樹皮が所々捲れかけている。それを引っ張ると幹を回るように大きく剥がれ、下からは真新しいオレンジ色の肌が出てきた。
「マカバの皮は扱いやすいのよ」
 僕はやっさんの指示で枯れ枝を探し、複雑に枝分かれした大枝を雪から掘り出した。二人で枝軸を折って立て、剥ぎ取ったマカバの樹皮で周りを緩く包み、残りの枝を組み上げる。ちょっとしたやぐらだ。
 やっさんはライターと、僕が預けていた学校からの処分通知をポーチから出した。慣れた手つきで着火し、紙をやぐらの下に潜り込ませる。数秒と経たずに樹皮から火が出始め、火は静かに大きくなり、渦巻いて空に昇った。見上げた先で立木の生枝が熱に歪んだ。
「すぐに落ち着くさ」
 やっさんの言う通り、炎はじきに僕の背より小さくなった。煙が酷くなり、風上にいても苦しくてしゃがんだ。米粒大の黒い虫が雪の上を必死に逃げていた。
 さっきの落とし穴の感覚が襲ってきた。
「やっさんが消した山って、どうなったの」
 僕は聞いた。
 火を見つめ、またしばらく顎髭を撫でた後、やっさんはポケットの菓子袋を引っ張りながら、
「でかいニュータウンだ。子供が多いらしい」と答えた。
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2023.04.22 Sat l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 窓の外の雪に、飼い猫と昔家で観た映画のエンドロールが重なった。遙か上空から群を成して延々と降りてくる白い名前たち。実際の方向などは定かでなく、確かな記憶は膝の温もりだけだった。雪まみれになって歩いてくる家庭教師を見つけた心愛はいそいそと玄関まで迎えに行く。

 家庭教師の名前が死んだ猫と同じ「ソラ」だということを、心愛は先週知った。彼のスマートフォンを盗み見た瞬間に、思い出は光線となって現在と過去とを激しく往来した。

 ハンガーを借りダウンの上着を部屋に干すと、家庭教師はいつも通り雑談から始める。彼の癖毛に残った雪が融けて光る。よく茂った頭髪に、心愛は胸の中で「冬毛」と呟いた。
 親と彼が名を心愛から隠したように、心愛も自らの発見を秘匿した。日常を守るためには秘密でなければならないと彼女は解釈していた。
 もっとも勉強に集中などできず、家庭教師の怪訝な顔から目を背けて時間ばかりが過ぎてゆく。

「ごめんねぇ、今日はコーヒー切らしちゃって」と母が差し入れたのはホットミルクだった。
「わぁ、いつもありがとうございます。牛乳好きっすよ」
 喉を鳴らして浮き出る顎の輪郭と静脈に心愛は目を奪われた。確かにソラはミルクが好きだった。

 気づけば指導が終了していた。再び上着を着、じゃあまた、と言ってドアの向こうに消える家庭教師の背中を、息を詰まらせたままの心愛は見送った。まもなく雪掻き用の長靴を履き、自らも外に出た。先を行く彼はすぐに気づき立ち止まった。
「どうした?」
「そこまで送ってあげる」

 一列で歩く二人に会話はなかった。ふかふかした背中を見ながら、心愛は名前を呼びたいと強く思った。
 何度息を吸っても、名前は出てこなかった。気持ちばかりが溢れて、他に手立てがなく、心愛は後ろから彼に抱きついていた。表面の冷たさの向こうに温もりがあった。しかし決して芯に触れることはできない温もりだった。
 恐る恐る心愛が離れると、家庭教師は振り返り、雪を優しく払うように心愛の頭を三度撫でた。

 家庭教師を見送った後、心愛は火照りが取れるまであてもなく歩いた。人のない道の上に厚く積もった新雪は軽かった。蹴り上げるように足を運ぶ。そのたび、きめ細かい雪は飛沫のように波立った。雪の中を歩き続けながら、ミルクみたいだ、と心愛は思った。

 夜中に熱が出て、治るまで三日かかった。家庭教師との契約が解消されたことを、心愛は翌週知った。
2023.03.14 Tue l 未分類 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 僕は学生時代、貧乏サークルの部室みたいな部屋に居候していたことがある。歴代の部員が遺した本は積もり積もった埃みたいに沈殿していて、その中からふと手に取ったのが「個人的な体験」だった。冬の寒さから煎餅布団に逃げ込んで、ついでに学校の課題などからも逃避した勢いで一気に読んだ。衝撃、というほどの記憶はないが、面白かったことは覚えている。
 それから図書館に通い「死者の奢り・飼育」「洪水はわが魂に及び」「万延元年のフットボール」「性的人間」「新しい人よ眼ざめよ」など色々読んだ。乏しい僕の読書経験の中で、大江健三郎の作品は結構なウェイトを占める。個人的には初期も後期も読みやすい、というか興味を引き出してくれる文体だった。それと、故郷の自然に関する記述が特に好きだった。
 ご冥福をお祈りします。
2023.03.14 Tue l 未分類 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 少女みたいに祖母が僕たちの距離感を揶揄うものだから、気を遣ったのか明希は僕の右手を掴んだ。それを持ち上げ僕に見せつけながら、
「恋人繋ぎしちゃった〜」と彼女はヤケクソ気味に笑った。温かな細い指がぐいぐい食い込んだせいで、手にはまだその感覚が残っている。
 そろそろ祖母と母が買い物なら帰ってくる時間で、僕は明希を起こしに祖父の書斎へと向かった。木製のドアを軋ませながら開くと、左手の窓際に置かれたソファの上で明希が頭をこちらに向け、静かな寝息を立てていた。
 何気なしには入ることのできない部屋だった。祖父の他界以降も祖母は毎週掃除機をかけているが、部屋の中は何となく時間が止まったような匂いが染み付いている。祖父がいた頃の匂いだ。
 丸い頭のつむじに近づく。まもなく、いつもとは明確に異なる匂いの存在に気づいた。気づいたというか、僕は少しだけそれを期待していた。明希の使っているトリートメントとか、柔軟剤とか、頭皮とか、そんな類だ。できれば部屋の雰囲気ごと塗り替えて欲しかったのだが、祖父の名残は強力だった。僕は部屋の奥にある祖父の机椅子に座った。揃えた両足をこぢんまりと畳んで横を向く明希は、窓の逆光に翳っていた。
 僕の脳みそは明希の香りを「懐かしいもの」と「新しいもの」のどちらに分類すべきか迷っていた。近所で育った明希は実の孫よりも祖父に懐いていた。引越しの時は祖父に抱きついて泣き、戻ってきた時は仏壇の前で泣いた。
 僕が嘘をついたか何かで祖父に酷く叱られた時も明希は祖父のそばにいた。明希と一緒に遊んでいたところ、険悪な雰囲気になるや明希は祖父の側についたのだ。あの明希の目は何を思って僕を見ていたのだろう。
 今、明希の目はどこを見るでもなしに薄く開いている。瞼がゆるいのか、昔からそうだった。時折白目になりながら無防備に眠る明希の寝顔を、僕は何度もこっそり眺めたものだ。起きたら指摘してやろう。手に残る生々しい感覚とは裏腹に、断絶された過去を覗くような気分が襲ってくる。
 ふと明希の袖を登るてんとう虫が目に入った。七つの星を背中に乗せて、短い足を忙しなく動かしていた。小刻みに休憩を挟み、幾つもの袖の襞を越え、明希の小さな肩のいただきに辿り着いたてんとう虫は、一呼吸おいてから翅を展開し、重たそうにどこかへ飛んでいった。
「明希」と僕は声をかけた。明希は微かに身じろぎをして、すうっと息を吐いた。
2023.03.07 Tue l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 どこかで鐘の音がした。凍てつく湯気を裂いて彼は走り出す。たちまち顔が強張る。全天の夜空が身体を押し潰そうとする。淡々と脚を動かすうちに血が巡り、痺れに似た一波の痛みが体の末端から末端へと通過する。不純物のない夜気が肺を洗っていく。
 道は高台を行く。遠くに木々が黒々と鎮座し、まるで静止している。梢に猛禽の影が二つ。緩い谷を越える橋の途中、段丘の下方に広がった街あかりが見える。地方都市は夜に沈んでいる。
 夜闇を走るとき、彼には父も母も兄弟もいない。彼の虚構の孤独を夜は黙殺した。澄んだ反響だけが彼の耳の奥に届いた。
 すぐに緩い切り通しが景観を遮り、法面に生えた丈の長い枯草が袖を掠める。電波塔を過ぎると人家が現れる。最初の交差点を曲がって下り坂が始まり、あの街あかりへと降りていく。
 地面から脚に伝わる律動的な衝撃。滑らかな氷が断続的に蔓延っている。油断した一瞬、凍結面の反発を捉え損ねて派手に転倒した。が、受け身を取った彼はそのまま走り続ける。左手の痺れが軽い出血を示唆した。
 きっかけはあったが、既に意味をなしていなかった。理由は失われている。見慣れた校舎がそびえ立つ広い敷地の正門前で一度足を止める。睨んでも、唾を吐いても分厚い壁は反応しない。こうして毎日高校には「通っている」。それを知る者はいない。
 街の中を抜け、今度は湖のほとりに敷かれた長い坂道を一気に駆け上がる。結氷した湖面は雪を被って仄白い。湖底に沈んだ死体は浮いてこないらしい。
 登り切る頃には心臓が止まりそうになる。膝に手をついて荒い息を整える。確かなものが欲しかった。自分自身の不確かさで今にも心身が千切れそうだった。肉体的苦痛は厳冬の夜と等しく彼を安堵させた。勝手に流れる涙を拭う拍子に触れた前髪は凍っていた。
 街路樹を数えながら脚を動かす。閑散とした住宅地を街灯が疎らに照らす。赤い実の房がいくつもの枝先で萎びている。
 昔好きだった和菓子屋の前を通る。廃墟に見えた。いつ食べたかも覚えていない素甘の味が口の中に滲んだ。本当は血の味だった。この頃はいつも、彼は無意識に歯を強く食いしばっている。
 巨大な冷気が沈澱していた。雲はなく、放射冷却が亢進する。家が近づき、徐々に走る速度を落としていく。彼は単なる子供だった。父も母も兄弟もいた。生活もあった。ただ一切は空疎で、誤りで、泡沫で、無価値だった。確かなものが欲しかった。
2023.02.09 Thu l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top