いつから道を誤ったのか、敏郎がハンドルを握る車は見当違いの方向を目指していた。
僕も敏郎も、その目的地には今まで行ったことがなかったから、流れる風景がことごとく見知らぬものだったところで気付くことなどはできなかったのである。家々が疎らになり、これは怪しいぞと思ったときには道標も当然ながらすっかり見当たらなくなっていて、助手席の僕は、所々挟まっている付箋をはがせば新品と見分けがつかなくなるであろうマップル地図を手にナビを任されていたけれど、そんなものは日ごろめったに読むことがないものだから、こう不測の事態に陥ってしまえばテンで当てにならないのだった。
ハッとしたのは、フロントガラス越しに見る空の中に斜陽があり、ぎゃあぎゃあうるさい橙の光が強烈に目を刺すのが絶えがたくなる頃だった。
「おい敏郎、ちょっと脇に停めて」
「ん、いいよ」
敏郎は快く応え、ブレーキペダルを踏み始める。その反応の中に敏郎自身の戸惑いや不安、あるいはそこから生じるであろうある種の期待なんかは微塵も見出せない。僕の提案にとにかく全面的に賛同している姿しか僕の心には映らない。ジーンズにカッターシャツといういでたちの、人のよさそうな柔和な横顔が夕陽をまともに受けて少し歪んでいる。その奥で何を考えているのか、実際のところはまったく分からなかった。
「この道さ、西に向かってるよな」
「え」
「だってほら、夕陽がさ――」
「ああ、そうだね」
「俺たち、ここに行きたいんだよな」
地図上の目的地を指差して言葉を続ける。「だったら、今頃は東に向かってなきゃおかしいぜ」
敏郎がここに行ってみたいと僕を誘った山の上のカフェなる洒落たお店に、本来ならとっくに到着しているはずである。思ったより遠かった、なんて話ではなく、この不吉な発想は異世界へ迷い込もうとしているようなものだった。完全に停車しエンジンを切ると、前方の田畑も、その中にたたずむ疎らな農家も静まり返っている。遠景の山のすぐ上にあって泣き喚くような太陽と、助手席側に茂る森から聞こえてくる晩夏のセミの声が、却って人里の沈黙を際立たせている。そこかしこにセミを抱えているらしい森は暗かった。あの山から、そして僕のすぐ右手から滲み広がってゆく翳にあらゆる騒々しさが飲み干されてしまうのを、里はじっとりと待っている。エアコンも切れたために汗が吹き出るほどの熱気がせりあがってきたが、僕も敏郎も、窓を開こうとはしなかった。
こんなことがあってたまるものか。自分で指摘しながらも僕は半信半疑だった。道の曲がる回数はきちんと数えていたし、曲がる方向を間違えたはずはない、と思う。途中から右と左を取り違えて指示していたなら話は分かるが、そんなことは有り得ない、と信じたい。
「やべえな、どうなってんだ」
もしかしたら地図の右手は西だったかもしれない。いや、太陽は東に沈むものだったのかもしれない。そもそもこの地図は本当に正しく作られているのか。そんな根拠もなければとりとめもないことを真剣に考えるくらい僕の頭は混乱していた。すると現在地がどこなのか、という目下の問題も見えなくなって、敏郎が僕から地図を取り上げようとするのには酷く苛立ちを覚えた。俺を置き去りにするんじゃねえ。
しかし敏郎の分析はすばやかった。
「起点から辿って西に伸びていく道はこれとこれとこれで……、今はけっこう広がりのある谷の中を走ってて、二十分くらい前に踏み切りを渡って、それから山裾を越えたから、ここら辺の可能性が高いかな」
敏郎が指差した「現在地」と僕がイメージしていた場所との乖離が甚だしく、僕はただちにそこを「現在地」と認めることができなかった。しかし、その根拠を冷静に辿れば、無為に思いついた仮説を並べる僕の思考よりは信憑性の高い話に思われる。それでもこの石頭はすんなり納得することができず、なぜこうも間違ってしまったのだろうと問いかけずにはいられない。敏郎は新説の現在地から小奇麗な女爪を以て道をさかのぼり始める。するとだんだん元来進もうと考えていた道筋に歩み寄っていき、やがて二本の道は合流する。そこは限りなくうっすらとしか股を開いていないY字路だった。
「ここで、俺たち右に曲がったのかもね」
「まさか」
「曲がったことにすら気付かなかったのかもしれない。他に何か思いつくこと、あるかな」
敏郎はバイトでかれこれ三年ほど塾の講師をしている。子供に自己紹介をするかのような質問のしかたは、その過程で培ったスキルなのだろう。
混乱してるのに分かるわけねえだろう、と逆ギレしたくなる自分が妙に情けなく思えてくる。
「ないな」
「何か、ちょっとでも気に掛かったことがあれば言ってくれていいよ」
「ないっつってんだろ」
敏郎は僕の反応が心外だったらしく、どことなく傷ついた目つきになった。
「ごめん。どっか高圧的だったか」
「いや、いいけど」
腰の低い対応をされるとこっちまで反射的に腰が低くなるのは、日本人の性なのか。「すまん、俺がカリカリしてただけだよ。気にすんな」
「そうか」と言ってから、敏郎は微妙に強張ったままの目を再び地図に移した。「分岐に戻るとしても三十キロくらい戻る必要があるみたいだ。今日は、ここから引き返して、適当な店を見つけて入ることにしよう」
「すまんな、ナビ、ミスって」
言いそびれないように僕が慌てて言うと、敏郎は曖昧に笑って見せた。
「いいさ。初めて来る道だから、こういうことは十分ありうるんだ。俺ももっと注意すればよかったなあ」
背丈はでかいが黄色く変色し始め死に掛けている路肩のイタドリやハンゴンソウが、風を受けてわらわらと揺れる。ハンゴンソウの爛れた手に似る葉は僕たちを暗闇に誘っている。それに抗うように車は息を吹き返し、もと来た道を引き返し始めた。(続く?)
僕も敏郎も、その目的地には今まで行ったことがなかったから、流れる風景がことごとく見知らぬものだったところで気付くことなどはできなかったのである。家々が疎らになり、これは怪しいぞと思ったときには道標も当然ながらすっかり見当たらなくなっていて、助手席の僕は、所々挟まっている付箋をはがせば新品と見分けがつかなくなるであろうマップル地図を手にナビを任されていたけれど、そんなものは日ごろめったに読むことがないものだから、こう不測の事態に陥ってしまえばテンで当てにならないのだった。
ハッとしたのは、フロントガラス越しに見る空の中に斜陽があり、ぎゃあぎゃあうるさい橙の光が強烈に目を刺すのが絶えがたくなる頃だった。
「おい敏郎、ちょっと脇に停めて」
「ん、いいよ」
敏郎は快く応え、ブレーキペダルを踏み始める。その反応の中に敏郎自身の戸惑いや不安、あるいはそこから生じるであろうある種の期待なんかは微塵も見出せない。僕の提案にとにかく全面的に賛同している姿しか僕の心には映らない。ジーンズにカッターシャツといういでたちの、人のよさそうな柔和な横顔が夕陽をまともに受けて少し歪んでいる。その奥で何を考えているのか、実際のところはまったく分からなかった。
「この道さ、西に向かってるよな」
「え」
「だってほら、夕陽がさ――」
「ああ、そうだね」
「俺たち、ここに行きたいんだよな」
地図上の目的地を指差して言葉を続ける。「だったら、今頃は東に向かってなきゃおかしいぜ」
敏郎がここに行ってみたいと僕を誘った山の上のカフェなる洒落たお店に、本来ならとっくに到着しているはずである。思ったより遠かった、なんて話ではなく、この不吉な発想は異世界へ迷い込もうとしているようなものだった。完全に停車しエンジンを切ると、前方の田畑も、その中にたたずむ疎らな農家も静まり返っている。遠景の山のすぐ上にあって泣き喚くような太陽と、助手席側に茂る森から聞こえてくる晩夏のセミの声が、却って人里の沈黙を際立たせている。そこかしこにセミを抱えているらしい森は暗かった。あの山から、そして僕のすぐ右手から滲み広がってゆく翳にあらゆる騒々しさが飲み干されてしまうのを、里はじっとりと待っている。エアコンも切れたために汗が吹き出るほどの熱気がせりあがってきたが、僕も敏郎も、窓を開こうとはしなかった。
こんなことがあってたまるものか。自分で指摘しながらも僕は半信半疑だった。道の曲がる回数はきちんと数えていたし、曲がる方向を間違えたはずはない、と思う。途中から右と左を取り違えて指示していたなら話は分かるが、そんなことは有り得ない、と信じたい。
「やべえな、どうなってんだ」
もしかしたら地図の右手は西だったかもしれない。いや、太陽は東に沈むものだったのかもしれない。そもそもこの地図は本当に正しく作られているのか。そんな根拠もなければとりとめもないことを真剣に考えるくらい僕の頭は混乱していた。すると現在地がどこなのか、という目下の問題も見えなくなって、敏郎が僕から地図を取り上げようとするのには酷く苛立ちを覚えた。俺を置き去りにするんじゃねえ。
しかし敏郎の分析はすばやかった。
「起点から辿って西に伸びていく道はこれとこれとこれで……、今はけっこう広がりのある谷の中を走ってて、二十分くらい前に踏み切りを渡って、それから山裾を越えたから、ここら辺の可能性が高いかな」
敏郎が指差した「現在地」と僕がイメージしていた場所との乖離が甚だしく、僕はただちにそこを「現在地」と認めることができなかった。しかし、その根拠を冷静に辿れば、無為に思いついた仮説を並べる僕の思考よりは信憑性の高い話に思われる。それでもこの石頭はすんなり納得することができず、なぜこうも間違ってしまったのだろうと問いかけずにはいられない。敏郎は新説の現在地から小奇麗な女爪を以て道をさかのぼり始める。するとだんだん元来進もうと考えていた道筋に歩み寄っていき、やがて二本の道は合流する。そこは限りなくうっすらとしか股を開いていないY字路だった。
「ここで、俺たち右に曲がったのかもね」
「まさか」
「曲がったことにすら気付かなかったのかもしれない。他に何か思いつくこと、あるかな」
敏郎はバイトでかれこれ三年ほど塾の講師をしている。子供に自己紹介をするかのような質問のしかたは、その過程で培ったスキルなのだろう。
混乱してるのに分かるわけねえだろう、と逆ギレしたくなる自分が妙に情けなく思えてくる。
「ないな」
「何か、ちょっとでも気に掛かったことがあれば言ってくれていいよ」
「ないっつってんだろ」
敏郎は僕の反応が心外だったらしく、どことなく傷ついた目つきになった。
「ごめん。どっか高圧的だったか」
「いや、いいけど」
腰の低い対応をされるとこっちまで反射的に腰が低くなるのは、日本人の性なのか。「すまん、俺がカリカリしてただけだよ。気にすんな」
「そうか」と言ってから、敏郎は微妙に強張ったままの目を再び地図に移した。「分岐に戻るとしても三十キロくらい戻る必要があるみたいだ。今日は、ここから引き返して、適当な店を見つけて入ることにしよう」
「すまんな、ナビ、ミスって」
言いそびれないように僕が慌てて言うと、敏郎は曖昧に笑って見せた。
「いいさ。初めて来る道だから、こういうことは十分ありうるんだ。俺ももっと注意すればよかったなあ」
背丈はでかいが黄色く変色し始め死に掛けている路肩のイタドリやハンゴンソウが、風を受けてわらわらと揺れる。ハンゴンソウの爛れた手に似る葉は僕たちを暗闇に誘っている。それに抗うように車は息を吹き返し、もと来た道を引き返し始めた。(続く?)
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