本サイトの1000文字小説#123『ロストマン』は、投稿小説競作サイト「短編」の第193期コンペ参加作品です。
本作はいろいろと考えて作った割に上手く表現できていなかったので、悪手ですが以下に解説します。
●文章の形式について
本作は日記という設定にしてあります。
日記というのは原則書き手のみが読み手になるという特殊なものです。そのため、書かれる情報は自分にだけ分かれば、本来支障はありません。情報がノイジーであったり、個人名がいきなり出てきてストレスがかかるという意見がありましたが、これは日記特有の独りよがり的性格が出たものと思います。もちろん、わざとらしくない方法で読みやすい文章構成にすることができなかったのは作者の力量の問題です。
日記の形をとったのは、時間差を作りたかったからです。日記はその日の出来事を(大抵は)その日中に書いて終わりですが、それを読み返して、後からコメントを書き足すことも可能です。この時間差を利用して、抑圧的な主人公が自分に対し自己開示をする、という展開を狙いました。
ひとつ失敗したなと思うのは、日付を書かなかったことです。そこまで具体的な情報を書きたくなかったのですが、日付のない日記は日記ではありません。このせいで日記だと思わなかった方もいたかもしれないと考えると、日付を抜いたのは得策ではありませんでした(タイトルを「二年前の日記」とでもしておけば良かったかもしれないですが、今回は「ロストマン」に思い入れを感じてしまったので良しとしてます)。
●言葉遣いについて
語調は努めて淡々としたものにさせています。結果的に主観的な記述は多くなりましたが、体温をあまり感じさせない客観的な文章を書いてみたい、という動機からの挑戦でした。
理系的な言葉遣いも真似しています。「これはおそらく、私の進路が彼女の影響を有意に受けていることを示唆する。」という文が顕著な例です。これに対しては言葉の使い方がおかしいという指摘がありましたが、それは全く正しい意見だと思います。
「有意」や「示唆する」は理系的な論文でよく見ますが、理系の文章なら「おそらく」という言葉はまず使いません。また、「有意」というのは統計学的な検定により「有意ではない」という仮説が棄却されたとき使う言葉です。よって、断定を避ける「おそらく」も「示唆する」も、一緒に並ぶことには違和感が伴います。それでもあえてこんな冗長で曖昧な文にしたのは、客観的に「影響を受けている」と言いたい(有意)けど、そう言い切れるような検証は行えていない(示唆する)し、正直自信もない(おそらく)という揺らぎの現れだと思っていただきたい。
どうせ統計解析の報告書でも論文ってわけでもないので、というのは作者の言い訳です。
●登場人物について
「短編」をご覧になっている方はお気づきだと思いますが、主人公は第191期参加作品「若人は〜」の楠本隊長です。また彼と吉村、関そして小出は全員「学生ヒグマ調査団」のメンバーです。ちなみに本作は「日記とその数年後の追記、という二段構成になっていること」「学生ヒグマ調査団メンバーのその後を書いていること」という二つの意味から、仮タイトルを「後日談」としていました。
吉村は「若人は〜」執筆時から女性のつもりでした。あの団体にはジェンダーの概念がない、という設定で、「若人は〜」では男女の別を示唆する表現を避けていました。嘘ではありません。
●小道具とテーマについて
いただいた指摘にもありましたが、本作はコンパスの存在が大きな意味を持っています。羅針盤が人生を見定める力のメタファとして使われているのはよくある話で、本作も概ねその通りです。ただ、ここには個人的なこだわりがあります。
楠本たちはコンパスを地図読みに使います。地図は、羅針盤と同様に進むべき道を示す道具とされ、それが却って選択肢を制限するのだとする見方もあります(KinKi Kidsにそんな歌がありました)。
しかし僕に言わせれば、コンパスや地図は僕たちを自動で導いてくれるような便利道具ではありません。そういう意識を持っていたら遭難してしまいます。いうまでもなく、現在地や進路を判断するのはあくまで読図する人自身なのです。
「地図を読む」という行為の半分は地図を読みません。何より重要なのは周辺状況を見極めることで、次に図面と周囲を突合し、初めて現在地を判断することができます。現在地がわかれば、足元から見えない景色は地図から知ることができ、周囲環境を踏まえてどのように進めば良いかを「自由に」決めることができます。そう考えたとき、地図やコンパスはあくまで駆使すべき道具に過ぎず、地図読みとは多分に能動的で主体的な行為だといえます。
要は本作におけるコンパスは、どちらかといえば主体性や能動性のメタファだったわけです。自分の生きる領域を強固に制限していた会社が、実は吉村が言うようにすぐぺしゃんこになるような不確かなものであると気づき、周りや自分が見えてきた主人公は自分なりの道を探すのです。 そういうわけでテーマは「若人は〜」と似ていて、「日常の不確かさを乗り越える主体性」みたいな感じでした。
なお、それならアイテムは地図で良いのでは、ということにもなるんですが、街の中で実際にコンパスを下げてた人が知り合いにいるのでこちらを採用しました。なかなか素敵な感性の人でした。
●タイトルについて
仮タイトルは「後日談」でしたが、ありきたりだし、「若人は〜」ありきみたいな読まれ方をするのは良くないと思い、バンプオブチキンの名曲「ロストマン」に改名しました。この歌は、破り損なった地図や壊れかけのコンパスを持って、いつか「違う道を選んだ自分」に会いに行く、というような歌詞で、タイトルを決めてから、ああ本作も影響を受けているなと気づきました。ただ、本文とタイトルを最も強く繋いでいるのは、歌の中にある「ここが出発点 踏み出す足はいつだってはじめの一歩」という歌詞だと考えています。
本当に良い曲なので、この作品を見て、ロストマンを聴いた方がいたらすごく嬉しく思います。
本作はいろいろと考えて作った割に上手く表現できていなかったので、悪手ですが以下に解説します。
●文章の形式について
本作は日記という設定にしてあります。
日記というのは原則書き手のみが読み手になるという特殊なものです。そのため、書かれる情報は自分にだけ分かれば、本来支障はありません。情報がノイジーであったり、個人名がいきなり出てきてストレスがかかるという意見がありましたが、これは日記特有の独りよがり的性格が出たものと思います。もちろん、わざとらしくない方法で読みやすい文章構成にすることができなかったのは作者の力量の問題です。
日記の形をとったのは、時間差を作りたかったからです。日記はその日の出来事を(大抵は)その日中に書いて終わりですが、それを読み返して、後からコメントを書き足すことも可能です。この時間差を利用して、抑圧的な主人公が自分に対し自己開示をする、という展開を狙いました。
ひとつ失敗したなと思うのは、日付を書かなかったことです。そこまで具体的な情報を書きたくなかったのですが、日付のない日記は日記ではありません。このせいで日記だと思わなかった方もいたかもしれないと考えると、日付を抜いたのは得策ではありませんでした(タイトルを「二年前の日記」とでもしておけば良かったかもしれないですが、今回は「ロストマン」に思い入れを感じてしまったので良しとしてます)。
●言葉遣いについて
語調は努めて淡々としたものにさせています。結果的に主観的な記述は多くなりましたが、体温をあまり感じさせない客観的な文章を書いてみたい、という動機からの挑戦でした。
理系的な言葉遣いも真似しています。「これはおそらく、私の進路が彼女の影響を有意に受けていることを示唆する。」という文が顕著な例です。これに対しては言葉の使い方がおかしいという指摘がありましたが、それは全く正しい意見だと思います。
「有意」や「示唆する」は理系的な論文でよく見ますが、理系の文章なら「おそらく」という言葉はまず使いません。また、「有意」というのは統計学的な検定により「有意ではない」という仮説が棄却されたとき使う言葉です。よって、断定を避ける「おそらく」も「示唆する」も、一緒に並ぶことには違和感が伴います。それでもあえてこんな冗長で曖昧な文にしたのは、客観的に「影響を受けている」と言いたい(有意)けど、そう言い切れるような検証は行えていない(示唆する)し、正直自信もない(おそらく)という揺らぎの現れだと思っていただきたい。
どうせ統計解析の報告書でも論文ってわけでもないので、というのは作者の言い訳です。
●登場人物について
「短編」をご覧になっている方はお気づきだと思いますが、主人公は第191期参加作品「若人は〜」の楠本隊長です。また彼と吉村、関そして小出は全員「学生ヒグマ調査団」のメンバーです。ちなみに本作は「日記とその数年後の追記、という二段構成になっていること」「学生ヒグマ調査団メンバーのその後を書いていること」という二つの意味から、仮タイトルを「後日談」としていました。
吉村は「若人は〜」執筆時から女性のつもりでした。あの団体にはジェンダーの概念がない、という設定で、「若人は〜」では男女の別を示唆する表現を避けていました。嘘ではありません。
●小道具とテーマについて
いただいた指摘にもありましたが、本作はコンパスの存在が大きな意味を持っています。羅針盤が人生を見定める力のメタファとして使われているのはよくある話で、本作も概ねその通りです。ただ、ここには個人的なこだわりがあります。
楠本たちはコンパスを地図読みに使います。地図は、羅針盤と同様に進むべき道を示す道具とされ、それが却って選択肢を制限するのだとする見方もあります(KinKi Kidsにそんな歌がありました)。
しかし僕に言わせれば、コンパスや地図は僕たちを自動で導いてくれるような便利道具ではありません。そういう意識を持っていたら遭難してしまいます。いうまでもなく、現在地や進路を判断するのはあくまで読図する人自身なのです。
「地図を読む」という行為の半分は地図を読みません。何より重要なのは周辺状況を見極めることで、次に図面と周囲を突合し、初めて現在地を判断することができます。現在地がわかれば、足元から見えない景色は地図から知ることができ、周囲環境を踏まえてどのように進めば良いかを「自由に」決めることができます。そう考えたとき、地図やコンパスはあくまで駆使すべき道具に過ぎず、地図読みとは多分に能動的で主体的な行為だといえます。
要は本作におけるコンパスは、どちらかといえば主体性や能動性のメタファだったわけです。自分の生きる領域を強固に制限していた会社が、実は吉村が言うようにすぐぺしゃんこになるような不確かなものであると気づき、周りや自分が見えてきた主人公は自分なりの道を探すのです。 そういうわけでテーマは「若人は〜」と似ていて、「日常の不確かさを乗り越える主体性」みたいな感じでした。
なお、それならアイテムは地図で良いのでは、ということにもなるんですが、街の中で実際にコンパスを下げてた人が知り合いにいるのでこちらを採用しました。なかなか素敵な感性の人でした。
●タイトルについて
仮タイトルは「後日談」でしたが、ありきたりだし、「若人は〜」ありきみたいな読まれ方をするのは良くないと思い、バンプオブチキンの名曲「ロストマン」に改名しました。この歌は、破り損なった地図や壊れかけのコンパスを持って、いつか「違う道を選んだ自分」に会いに行く、というような歌詞で、タイトルを決めてから、ああ本作も影響を受けているなと気づきました。ただ、本文とタイトルを最も強く繋いでいるのは、歌の中にある「ここが出発点 踏み出す足はいつだってはじめの一歩」という歌詞だと考えています。
本当に良い曲なので、この作品を見て、ロストマンを聴いた方がいたらすごく嬉しく思います。
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