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 至る所から湯気が湧き上がっている。合間にきらめく雪景色の中で信号は青になる。朝靄のバッファローさながら、圧雪で見えない横断歩道へと踏み出す群衆、のはずれで、ひとりだけ動かない。夜間専用押しボタンの近傍、臙脂色のマフラーに挟まってたわんだ長い髪が揺れている。彼女がペタペタと足踏みをしている間に僕は追いついた。
「何してるんですか」
「みんな通り過ぎるのを待ってる」
 そう言って見上げる彼女の小ぶりな目は雪のせいか、無垢に透き通って見える。エンジンを温めるように生真面目に、身体は行儀よく揺れ続ける。サラリーマンの群れが行き、次は小学生の群れ。
 冬が来てから、朝によく彼女と出くわすようになった。彼女は肌が白い。変な話だが、マフラーと髪の間から覗く頬が紅潮していてようやく気がついた。いや、冬だけそう見えるのかな。雪化粧に薄化粧。かたわらの彼女が急に笑い出す。
「どうしたんですか」
「思いついた。今日の夕ご飯手抜きしよ」
「何にするんですか」
「しゃけ」
 ニヤリとした顔はやはり無邪気に見える。ここで会う彼女は変わっていた。少なくとも会社で見かける彼女とは違う。時々自慢されるキャリアも、仕事ができて頼りになるという評判も、僕を助けてくれる熟練の所作もしっくりと来ない。家庭での彼女はどうだか、知らないけれど。やっぱり花柄のエプロンなんかするんだろうか。懸命に想像するも、家庭的な姿の象徴が母親であることの哀しさ。
「冬って好き?」
「え?」
 口から白い湯気を吐き出した彼女は群衆の最後尾を歩き始める。エンジンは十分に温まったわけだ。ペンギンみたいな足取りはペンギンよりもよほどしっかりとしている。追いついて、僕は答える。
「寒いのは苦手ですよ」
 ふふうん、と鼻から白い息。
「私は好きだな。綺麗だから。雪景色」
 ああ、それは分かるーーのだけど、彼女の横顔を見ながら、問いたくなった。
「いつか終わるとしても?」
 思いのほか意味深になった。しかし彼女は動じない。
「それはどの季節も同じじゃない」
「たしかに」
 年の功、という言葉を飲み込んで、会社まで歩いた。
 そうか、彼女は終わることを知っているんだ。それは大きな収穫のように思えた。同時に微かな罪悪感。少しずつ春に近づくなか彼女には悪いけれど、会社に着くといつも、僕は早く次の朝になれと願ってしまう。まだ煩悩が多いのだ。
 会社に着き、彼女はもう仕事人の顔だった。年の功。

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仕事中の人物像とその他の人物像って全然違いますね。
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2019.08.10 Sat l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 宅地化が進む水田地帯の一郭に、水田にも宅地にもならない奇妙な土地が存在する。約二十メートル四方の区画が吹き出物のように隆起しており、高さは四メートルほどである。雑草木が生い茂り、時々小鳥が羽を休めに飛んでくる。
 その土地だけ整地されずに残されている理由を、古い大人たちは祟られるからだと主張した。名もなき豪族の古墳説や弱小武将の首塚説など解釈には幅があるものの、開発工事の直前に現場監督が事故死した、地鎮祭の途中で落雷した等、過去にあったいくつかの凶事は地方紙から確認できる。
 親は子供に「あの土地へは近づくな」と教えたが、子供は無邪気にも近づいた。目当ては藪の中のエロ本であった。何者かが次から次へとエロ本を捨てていくらしかった。小学校高学年にもなれば、男も女も半数程度は性に興味を持ち始める。大人たちにはわからないよう、また敬意を込めて、子供らはその土地を宝島と呼んだ。
 中学に上がると女はやがて興味をなくし、男らは半ば信仰のようにその土地を慕った。地図上に示された三角形の記号から、彼らはそこをフリーメイソンと呼ぶようになった。フリーメイソンに集まる者はみな自身が特別な存在であると信じた。特別な男たちは特別なエロ本で特別な自慰に耽った。
 高校生の間では、エロ本から得た知識によりその土地は恥丘と呼ばれた。彼らは歳を偽ればエロ本などいくらでも買えるようになり、遠くのコンビニで手に入れては仲間内で回して読んだ。次から次へとエロ本が回ってくるため、最後に読む者は処分に困り、親の目を盗んでエロ本を恥丘に捨てた。
 各々の事情から、その土地の話題を異なる世代と共有することはタブーとされた。そのため、各々の呼び名や解釈はごく限られた集団にだけ通用し、子供の解釈は次の子供へ、大人の解釈は次の大人へと受け継がれたわけである。
 が、都会に出れば若者は狭い価値観から解放される。帰省してきた大学生は、昔教わったあの腫れ物のような土地の話を思い出し、苦笑しながら親に話した。
「あそこは国土地理院の土地なんだよ。三角点だから、呪いなんかなくても切り崩されるわけがないんだ」

 うら寂しい年の暮れ、地方紙の片隅に小さな記事が載った。隣町に住む無職の男が「宝島」と呼ばれる土地の噂を聞きつけ、水田地帯の一郭に隆起した土地の一部を掘り返したところ人骨が出土した、とのことである。男は取材を受けた三日後に死亡している。

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客観的な論調を目指しました。
テンテンテテンテンテンテンテテン
2019.08.10 Sat l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 標高千メートル付近の緩やかな稜線に木々は疎らだった。空の開放度合いから、千紗を取り囲むチシマザサは一帯に密生していると推察された。千紗は身動きが取れない。背丈を越えるササの海に勇んで飛び込み三十分、彼女は今、無数の稈と、その隙間で育った幾筋もの蔓に捕らえられていた。体は上向いて藪の中に浮き、目線はササの頂葉より少し低い位置にある。
 樹林を抜けるまでは良かったのに、と千紗は振り返った。沢筋が不明瞭になる頃には高木類の下から一旦濃い藪が消え、ミネカエデの洒落た黄葉が彼女を迎えた。枝は低いが這うほどではなく、見通しのきく林内は幼稚園のお遊戯会みたいに無垢に煌めいていた。新しい落ち葉の積もった腐葉土を踏みしめ、今日は気持ちの良い山行だ、と思っていたらこれである。
 稜線を乗っ越して向こうの谷に降りる当初のルートを遂行する場合、あと五十メートル、一時間以上は藪漕ぎが必要になると予想された。引き返す方が比較的容易ではあったが、体の向きを変えるという初手が既に困難だった。蝿の間延びした羽音を残して藪は沈黙した。朝露に濡れた体はゆっくりと冷えていく。
 服が捲れ、背中の下の方が外気に曝されていた。しかしシカの通った形跡はないことから、マダニが寄ってくる心配はあまりなかった。耳を澄ましてヒグマの音にだけ注意を払いながら、千紗は何もない空を眺めた。ここからはアスファルトの日々が見えなかった。蝿の羽音以外にやはり物音もなかった。死ぬかもしれないな、と千紗は考えた。死体は正しく動物に食われ、腐蝕し、土に還るだろうか。それともいつか誰かに見つかるのだろうか。
 思考が堂々巡りを始めた頃、甘酸っぱい香りを鼻が捉えた。千紗を拘束しているヤマブドウの蔓が匂いの発生源だった。黒く丸い漿果がたわわに実っていることに彼女は気がついた。ササの葉音を立てながら踏ん張って上体を動かし、漿果を一房摘んだ。二、三粒含むと、酸味が口内に弾けて唾液が出てきた。皮と種を吐き出せば可食部は僅かだった。口の寂しさに次から次へと食べた。漿果は無尽蔵だった。やがて際限がないことに思い当たり、千紗はひとりでくつくつと笑った。
 乗っ越しの方向に、老いたダケカンバの白く太い幹が突き出ているのが見えた。まずはあそこまで行ってみよう、と千紗は考えた。冷静に体を捻ればここからは抜け出せそうだった。乾いた音とともに、甘酸っぱい匂いが立ち昇った。

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こういう時間って贅沢じゃないですか。
2019.08.10 Sat l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 幾千枚もの葉が擦れ合うような耳鳴りだった。バスに酷く酔っていた。車内の揺れに勢いづく吐き気を堪えているうちに、ここは森の中だ、と木こりが言ったのを思い出した。
 徹夜のバイト帰りで疲れていたが、日々は充実していた。金はあるし、単位取得に特化した受講計画も順調に進んでいる。協力者の学友らとは今晩麻雀大会を開く。こんな日々があと二年、だらだらと続くことを僕らは殆ど確信していた。
 朝の混雑に巻き込まれたか、信号に捕まったか、バスの揺れが止まった。窓の外は煤けたビルがたち並ぶ街の中だった。アスファルトの大きな割れ目を通行人の一群が踏み越えていった。くぐもった喧噪の中に、ヤマガラの気が触れたような地鳴きが混じっていた。
 こんな日々でも時々不安に襲われた。例えばこのバスが次の瞬間、僕や僕の前で揺れる黒い頭たちごと爆発しやしないだろうか、なんて根拠のない、現実味のない不安だった。
 バスが少し動いてまた停止した。渋滞なんだろう。ビルの隙間の暗がりに、ホオノキの幼木が生えているのがわかった。イタヤカエデも。ホオノキは陽樹だからじきに枯れるだろう。けれど何せ春は無秩序だ。有利も不利もなく、どんな生き物も猛って生い茂る。生きて、死んで、森はできていく。知っているか。君たちの街も森になるんだ。木こりはそう言っていた。彼と出会った頃、僕は友人と廃村巡りにハマっていた。
 昔はここも街だった。それと同じくらい確かに、今ここは森の中だ、と木こりは言った。
 バスがまた揺れだした。イタヤカエデが太ってビルを傾がせた。街路のアズキナシが白い花を咲かせている。その根も舗装を砕いてイラクサが、ヨブスマソウが、チシマザサが、アキタブキが地表を覆う。ミミズが息を吹き返し、アカネズミが跳ねる。それをキツネが探し回る。オヒョウが、ミズナラが猛って伸びて太る。枝葉が視界を覆い空を隠す。バスはもう真っ直ぐに走れない。
 たまらず次の停留所でバスを降りた。全身の揺れが止まらず一気に吐いた。豊かに腐敗する暖気。葉の擦れ合うような耳鳴りがした。トドマツの黒い針葉が目に刺さる。眼前暗黒感。オニシモツケの湿布のような匂い。
 遠くから救急車の音がやってくる。いつかの小さな谷底にボロボロの車が転がっていた。すでに森の一部だった。僕を迎えに来たのはあの車だろうか。
 うまく立ち上がれなかった。辺りは眩しいのに薄暗かった。僕は森の中にいた。

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小説投稿サイト「短編」のコンペ参加作品を多少修正。
文章のバランスが偏っていたので構成を入れ替えました。
主人公は倒錯した風景に溺れ、それをじっくり味わう余裕も持っていません。
カタカナが氾濫し描写が少ないのは、その混乱と勢いの顕れかな、と思っています。
2019.08.10 Sat l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 七月、僕たちは先生に連れられ、ひび割れたアスファルトの道を海まで歩いた。小学校生活最後の遠足は、歩きながら校歌を繰り返し歌うのが伝統だったらしく、普段口数の少ない先生の歌声が絶え間なく前方から聞こえてきた。
 クラスメイト達は各々の雑談にふけりながらだらだらと歩いていた。先生の歌声は聞こえていたはずだ。しかし誰一人歌おうとはしなかった。伝統や、先生の言うことに従って、しかも大して格好良くもない歌を歌うという行為はダサい、というのが、たぶん僕らの共通認識だった。
 目的地は断崖の下に広がる砂浜だった。娯楽用の場所ではないため、ただの踏み跡みたいな小道を通って断崖を迂回し、ようやく砂浜に出た。弁当を食べてからは自由行動だった。拾った昆布を振り回す奴、波打ち際で押し相撲に興じる奴。僕はクラスメイトたちの遊ぶ姿を見ていたが、だんだんと彼らから離れたくなり、背を向けた。
 断崖に沿って歩いていくと、大きな岩塊が海に突き出し、砂浜は途切れていた。岩塊はごつごつしていて登れそうだった。這いあがってみると、岩の向こうは入り江のようにくぼんで再び小さな浜となっていた。僕は思い切って砂地に飛び降りた。辺りからフナムシが一斉に跳び上がった。波の音が心地よく、狭い空間をうろうろしながら自然と校歌が口からこぼれていた。
 不意に人影が岩の向こうから現れて僕はぞっとした。クラスの女の子だった。
「なにやってるのー?」
 と言いながら、彼女は僕と同じように岩から飛び降りた。僕は誤魔化した。
「秘密基地みたいだよね、ここ」
 女の子が周囲の散策を始めたので、僕は見つけた鳥の巣の痕跡などを教えてあげた。彼女は喜んでくれた。
 疲れた僕らは砂地に腰を下ろした。互いの膝が触れた。
「ねえ、何の歌、歌ってたの」
「え、聞こえてたの」
「うん」
 僕は躊躇してから、他に誰も聞いていないのだと思い、「校歌」と答えた。
「校歌ってさあ、なんでダサいんだろうな」
 波に「しらねえよ」と言われた気がした。
「じゃあ、わたしも歌う」
 冗談かと思ったが、女の子は僕の口元を見ていた。試しに最初のフレーズを口ずさむと彼女も同調した。狭い入り江の中に二人の歌声が充満した。向こうで海原が輝いている。気づけば僕も彼女も大声で歌っていた。
 歌い終わっても、互いに「ダサい」とは言わなかった。気分が高揚し、僕らは笑った。岩陰から、今度は先生の心配そうな顔が覗いた。
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