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 俺を見ろ。一発で楽にするから。

 俺はお前を畏怖している。だがお前は神ではないのを知っている。熱い呼吸が繊細なお前の命を生かしている。ただ生きようともがき、お前は走り続けている。お前の足跡を、俺は猛烈に追いかける。

 お前のことを教えてくれ。その深い瞳で何を見て来たのかを。その小さな耳で何を聞いてきたのかを。何が前をそこまで大きく育てたのかを。毛深い逞しい四肢が何を捉え、何に傷つき、何を傷つけてきたのかを。俺は何も知らないお前のことを知りたい。

 水溜りを駆け抜けた足跡が乱れている。その先に糞尿が撒き散らされている。お前は焦り、混乱しているのだ。糞の中身は青々とした蕗。お前の腹はまだ森の中だ。

 ヘリからの情報が入る。お前はコンクリート三面張りの水路を渡り、南へ向かっている。先回りのルートはすぐに浮かんだ。お前を死に追い込む動線だ。俺はすぐにジムニーに乗りアクセルを踏む。躊躇はしない。

 再び俺はお前を捉えた。波打ち躍動する背中。川の中を歩いてきたから、お前は気づかなかったのだろう。蕗を食み、鳥と遊んだ森の中から、もう随分と離れてしまった。お前は認めたくなかった。突然目の前に現れた獣をお前は拒絶し、薙ぎ払った。何の罪もない通りすがりの人間だろうが、お前は薙ぎ払ってしまったのだ。

 お前は広い茂みの中に入る。もう周りに人気はない。ああ、今日はとてもいい天気だ。お前が逃げ込んだ茂みは生き生きと揺れる。お前の最期の場所だ。俺は車を降り、ライフルを携え、祈りながら茂みに近づく。

 俺を見ろ。

 目の前に閃く大きな黒い掌、爪。

 お前の殺気で、俺はその光景を鮮明に描くことができる。俺は何度でも殺される。白昼夢。その度に怯みそうになる。お前の命が俺に重なりそうになる。生きていたいと思う俺に等しく、お前にも生きて欲しいと願いそうになる。

 せめて最期まで精一杯生きることを、俺は祈る。目標が定まる。銃を構えた俺の前には、もうお前しかいない。

 茂みの中から、二つの黒い瞳が煌めく。視線が俺とお前を結ぶ。凄まじい殺気、その先に俺は見つけ出す。怒り、不安、恐怖、驚き。そのさらに向こう。お前が生きてきた時間が爆縮する瞬間。衝撃、轟音。再び煌めいた瞳は、ゆっくりと茂みの中へ消えていった。
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2022.06.25 Sat l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 僕らの生徒会長は誰よりも常識を持たない。生徒会室にはもちろん彼のすき焼セットがある。すき焼を囲みながら深夜まで会報を作っていたのが一昨日のことで、昨日の祝日は寝不足の体を引きずり生徒会役員みんなで文化祭の準備をした。そして今日、生徒会長は学校をやめた。
 二時限目が終わってすぐに顧問のカネっちに呼び出された。
「何か、聞いてへんか」
「いえ、なにも」
 カネっちは狼狽えていた。巨漢が動揺すると空間がひずむ。悩み事でもあったんやろか、でも家の人も電話出ぇへんしなあ、文化祭どうすんねんあいつ、等々ひとりで喋り、なんだか僕にも狼狽えてほしそうだったから頭を掻いていると、
「まあええわ。また呼ぶ」と言い足早に撤退していった。
 教室に戻ると生徒会長は家族ごと夜逃げしたことになっていた。確かな情報をつかんだ奴がいるらしい。あまり興味は持てなかった。どのみち生徒会長がもういないことは事実のようだ。
 授業をさぼって生徒会室をのぞいてみたら、すき焼セットはまだあった。僕はそれを棚の奥のほうに仕舞った。窓が開いていて、なびくカーテンの向こうから笑い声がした。保育園児が散歩でもしているんだろうか。カーテンはとても明るい光に染まっている。
 ひんやりした階段を下った。遠くで授業の音がした。玄関を出てグラウンドに向かった。広いグラウンドだ。昨日の僕らがそこでキャンプファイヤーの薪を組んだり、クラスごとの区画線を引いたりしていた。骨董品レベルのラジカセで、蝉の声に負けないくらいの音量でロックバンドの曲を流しながら。
 ダレてくると生徒会長がどこかからホースを引張ってくるものだから、皆で水を空高く撒き虹を作って遊んだ。彼は本当に常識がないから、タバコから帰ってきたカネっちが「なんやお前ら!」と怒鳴ると、
「すんません、あんまり空が青かったんで」なんて全く反省のない声で謝りながら最高の虹を出現させるのだ。
 生徒会長の不在を受け入れることができるか、僕には自信がなかった。校舎の陰の草地から見渡すグラウンドには誰もいない。園児の笑い声もとっくに消え、蝉の声と、時々通る車の音だけ。昨日の痕跡を探してすぐに見つけた。同じ草地の中に、回収し忘れたラジカセ。僕は若干湿ったカセットテープを取り出し、ポケットに入れた。
 さすがにホースは見つからなかった。だから昨日の虹を空に浮かべた。快晴だった。そのまま宇宙へと抜けていく青だ。
2022.06.25 Sat l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 東屋まで来てみたが藍はいなかった。霧のような雨を受けた葉があちこちで鈍く光っている。僕は東屋に入り、ベンチに座って林内を眺めた。藍にも何度か見せた景色だった。
「みんな景色だと思い込むの」と藍は言っていた。「そこに自分も関係しているなんて、少しも思ってないみたい」
 だから彼女は教室に蛇を放ったのだ。十八匹のジムグリ。阿鼻叫喚の地獄絵図を眺めながら藍は冷たく笑った。
「どうせ自分の親が突然自殺なんかしたら、こんなふうに慌てるんでしょ?」
 耳を澄ます。散策路を挟んだ先に広がる茂みで鳥が囀っている。キビタキが低い木々の間から遊ぶように飛び上がり、弧を描いてまた茂みに消えた。喉元の黄色い残像。周囲のような高木がないから羽虫を捕まえやすいのだろう。整然と並ぶムシカリの若葉が風に触れて踊った。
 茂みの中央で、太い枯木が折れた幹を空に突き出している。開けた空間は巨木が生きていたことの証明だ。その痕跡の中で新しい木々が旺盛に伸びてゆく。分解された巨木の体を取り込みながら。
 藍の行方を他に考えたが思いつかなかった。ここへは一人でも通っていたようだ。だから自然が好きかと聞いたら、藍は怖いと答えた。
「じゃあ来なけりゃいいのに」
「声が聞こえるの。聞かなきゃ」
 ただの幻聴だろうけど、と言うのでどれだけ本気にすれば良いのかわからない。開けた空間のどこかから聞こえるらしかった。洞穴の奥の風のような、あるいは無数の唸り声のような、叫び声のような。
 耳に届くのは相変わらず鳥の声だ。茂みに巣を作るのか、ヤブサメが自己主張を始めた。虫みたいな囀りは高すぎて藍には聞こえない。藍の言う「声」も、もしかして僕が聞き取れないだけなのだろうか。猛り狂う生き物たちの声か、彷徨う亡霊の声か、両方か。
「やっぱり、幻想じゃねえの」
 口に出してみた。東屋の外の景色は遠かった。「関係しているなんて大袈裟な」
 目を閉じる。草木の興奮を代弁するようにヤブサメの声が尻上がりに響く。シーシーという音を蛇と勘違いする人もいるらしい。教室に放たれ右往左往する蛇。まだら模様のジムグリの幼蛇はやがてわらわら山へと逃げていく。赤い身体をくねらせながら茂みの中へ。低木の間を抜け、枯れ木の根本に、藍の足。
 思わずベンチから立ち上がり勢いでよろけた。
 鳥たちの声にいつの間にか微細な雨音が混じっていた。僕は東屋の柱に掴まり恐る恐る顔を上げる。
 まさか。
2022.06.25 Sat l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 会社と家が近いから昼休みには一度帰宅するが疲れはとれない。息子よ、帰った私を見るなり足にまとわりつくのは良い。散歩に行きたいのだな、連れ出すのも構わない。ただ腹に巻いたヒップシートの上に立つのはやめてくれ。
「はーいおちたらイタイイタイだから、おすわりよー」
 まだ言葉を持たない息子に語りかけながら前向きに座らせる。大人しく従ったと見せかけ、息子は大袈裟に振り向くと生えかけの歯を露わに「へへぇ」と笑った。
 この笑顔と妻の休息のため、というのは建前かもしれない。私自身、息子の相手をしていれば疲れるのに元気が出るのだ。今日こそは昼寝を!と思ったところでこの引力には勝てない。麻薬的だ。
 近くの川沿いに出た。小さな堤防から見下ろした川面は春の光で煌めいている。何度も来ているのに、息子は好奇心を剥き出して四方八方に身を乗り出す。脳の急速な発達によって何度でも新しい刺激を得るのだろう。それを繰り返して大人になったのだ、たぶん私も。
 何が見えるんだい。お父さんにとっては手垢のついた景色だけれど、君にはどんな世界に映るんだい。
 息子は胴を押さえる私の左腕を掴みながら物言いたげに首を振った。上着の袖が引っ張られて安物の腕時計が見えた。
 もう戻らなければ、と思った時、「あっ」と声をあげ息子が川の方に手を伸ばした。指差しの形をとれない指の向こうに小鳥がいた。川面へ張り出した灌木の枝にとまるカワセミだった。
 流線型の青い背中に尖った嘴。遠目でもその姿がカワセミだと分かったのは、テレビでよく見るからだった。正確には青よりもっと鮮やかだ。せせらぎが凝集して生まれた命であるかのように、陽光を浴びて体は宝石に似た色彩を放っている。
 佇んでいたのはほんの束の間で、私たちの方を一瞥するとカワセミは枝を飛び出した。青めく光の塊が川面を矢のように横切り、まっすぐそのままどこかへ消えていった。
 私は呼吸を忘れていた。息子にあれはカワセミだと教えなければ、と思う一方で、残像を前にすぐには体が動かなかった。重心が前に傾くのを感じて我に返り、息子を抱く腕を引きながらしゃがむ。急接近した地面に手を伸ばして小さき者は草花をサラサラと撫でた。
 少し視線を上げた視界いっぱいに色とりどりの花たちが溢れてきた。新しい春だ。私は腕時計を右手で隠し、もう一度腕に力を込めた。その中で、もうすぐ一歳になる息子はまた「へへぇ」と笑った。
2022.06.25 Sat l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 水底めく灯りのない階段をそっと降った。裸足を乗せる踏面は冷たく、小さく軋んだ。降りた先の天井からぶら下がる電球を点け、リビングには入らず廊下の方へ曲がるとチィがいた。弱い光を鈍く反射した床板に尻をついて座る従妹はこちらを見上げ、眉を上げたお馴染みの表情で、トイレ?と訊いた。
 眠れないだけ。
 壁につけていた背中を離し、膝を抱えていた腕を解きかけるチィを僕は制止した。
 オレも座るよ。
 照れ臭そうに破顔したチィの隣に腰を下ろす。床はやはり冷たい。傍に積んである缶コーヒーを一本手に取ると、これは思いの外冷たくなかった。
 あ、おじいちゃんのなのに。
 じいちゃんのだから良いんだよ。
 夜なのに良いの?
 どうせ眠れないからな。
 火葬を終えたばかりの祖父の質量は、生暖かくまだこの家に残っている。頑固だが酒を飲むとひょうきんで、宴に集まった親戚たちの前で僕に「するとお前は童貞か」なんて言って豪快に笑うような人だった。
 散々泣いたんだ。良いだろ、少しくらい。
 プルタブを持ち上げ缶を開けた拍子に、カポっという音がした。静かだ。
 思い出した、と僕は言った。
 何を?
 子供の頃、こんなふうに二人でコーヒー飲んだよな。
 ふふん、あったあった。
 喧嘩して祖父に二人とも怒鳴られた後、頭を冷やせと缶コーヒーを渡されたのだ。あの頃は、まだ膝を伸ばしてもお釣りが来るほど廊下が広く、缶コーヒーの量は飲みきれないほど多く、二人だけの空気は誰もいない水族館みたいで胸が高鳴った。
 ほんとに覚えてんのか?
 忘れるわけないよ、とチィは得意げに言った。口調とは裏腹に、出来損ないの子供を見守る親みたいな顔で。
 昔みたいにさ、またみんなでワイワイしたいよね。
 大学一年の頃に会ったときもチィは同じことを言っていた。彼女の日常に僕はいない。少なくとも、僕よりも遥かに生活は充実していそうだったから、こんな親戚付き合いを恋しがるのは意外だった。
 イワシの群れが目の前を過ぎていく。目眩と飛蚊症だ。実は僕はカフェインに弱いのだ。そしてチィは人魚に似ている。そう思ったことが一度ある。透き通った姿は僕の知るチィではなくて、無邪気に幸せを願っていたことを、その日後悔した。
 コーヒーは全然飲めそうになかった。
 やっぱ寒いから寝るわ、じゃ。
 僕は床にそっと缶を置く。
「おやすみ。じいちゃんによろしく」
 立ち上がると冷たい空気が顔を撫でた。静かだ。
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