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 こんな朝から汗が噴き出して口の中は塩辛い。俺たちは夏を蹴り起こす。杉の枯葉が積もった地面から、発声練習もできていない蝉たちが慌てて飛び出していく。出合え出合え。
 水のない谷をひたすら歩く。ポケットから地形図を取り出して読図、ついでにGPSの座標を確認して立ち止まる。振り返ると、俺が蹴り散らした埃の中を木漏れ日が幾筋も降りている。光に照らされたシゲさんと目が合って、ずんぐりした汗まみれのシゲさんはノソノソ歩きながら罰が悪そうに笑う。しなった杉の枯枝に躓いて、もう三回転んでいるから薄汚い。
 俺は紅白のポールを十字に組んで風景の一部になる。渓流荒廃状況写真だっけ? 知らん、あとは好きに切り取ってくれい。
 カメラを取り出すのにてこずるシゲさんも風景には溶け込んでいた。

 今日が夏のピークらしい。俺たちは蜘蛛の巣デストロイヤー。夜のうちに綺麗に整えられた巣を容赦なく破壊していく。退避する女郎蜘蛛を見送って進む藪だらけの川は暑いんだか涼しいんだか分からない。後ろで熊みたいに盛大な水の音、呆れるくらいに。
 昨日の電話は漏れていた。多分親御さんから、仕送りの催促だったんだろう。
 シゲさんはどうにか一人で立ち上がる。浅い川水は俺からシゲさんの方へただ流れていく。
「大丈夫ですか」
「え?」虚をつかれたシゲさんはプーさんの顔。やっぱり熊だ。
 こんなんでも、会社にいる時よりシゲさんはずっといい顔をしている。新人にこき使われようが山が好きなんだ、きっと。チーフのデスク前に立たされて一日中詰められている姿が朧げに浮かぶ。まるで夢みたいだ。夢なんだろう。

 山を抜けたら風が乾いて少し冷たい。何となく外で電話連絡。チェーン脱着場にゴロゴロ転がる毬栗を足で転がして。
「チーフ、シゲさんのこと褒めてましたよ」
 運転席でぼんやり外を眺めていたシゲさんは外を見たまま目を細めて「うん、そっかぁ」とだけ言った。
 シゲさんは会社に戻ったら仕事をやめる。実質クビらしい。なのに泥だらけの作業着はシゲさんの平和な呼吸に合わせて穏やかに膨らむ。
「帰りの運転、かわりましょうか」
 シゲさんははにかみながら首を振り、車は緩やかに走り出す。ため息を呑んで見やったずんぐりの肩に丸々太ったヒル発見。黙って取っても右折するシゲさんは気づかない。
 万感の思いを込めて窓を開け、ヒルを指でこねくり回してから外に放り投げた。俺たちは夏を後にする。
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2022.11.12 Sat l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 枝葉の間から覗く空に青みが差し、暗闇に沈み澱んでいた空気中の粒子が微かに動く。呼応して、思い思いの位置を占める草葉が僅かに身じろぎをする。その一角、空よりは地表に近い楢の葉の裏で、羽化したばかりの蝶が羽ばたいた。まだ飛びはしない。これから乾きを知るであろう柔らかな翅は、水に浸した小指が作る波紋のような風を一筋だけ起こす。次いで口吻と脚が動き、身体と外界のありようを確かめると、再び息を潜める。

 楢の枝先に身を寄せる冬芽の隙間に産み付けられた扁平な卵は、楢に守られて厳冬を凌ぎ、楢の芽吹きと共に孵った。得体の知れない巨大な物質と力の循環の末端に芽吹いた葉を、生まれたばかりの青虫は必死に食べた。葉は鋸歯を展げるにつれ硬く不味くなり、青虫の仲間のいくらかは楢の防御に敗れ弱り死んでいった。毎日のように雀(カラ)の類が葉の茂る枝枝にやって来、多くの仲間は食べられていった。数回の脱皮の後に蛹になり、羽化に成功したのはほとんど奇跡で、なかにはいつ襲われたのか、中身をすっかり食い尽くし肥えた艶やかな寄生蜂が這い出てくる蛹もあった。
 今は盛夏の始まりにあった。

 楢の枝先に集まる葉が揺れる。蝶が再び羽を動かす。既に翅は外界に馴染んでいた。大きく開いた小さな翅は翡翠色。何度も羽ばたき、やがて確信を得たかのように舞い上がる。枝葉の暗い蔭から見上げる空は青い。蝶は楢の樹冠に向かって上昇する。枝葉の随所に張り巡らされた、いつか囚われるのであろう蜘蛛の巣をひとつずつかわし、はらはらと危うげに揺らめきながら、より朝に近いほうへ。

 不意に複眼が仲間を見出し、動揺した蝶は姿勢を乱す。百分の一程の生存率で羽化を果たした雄同士の邂逅だった。大きく羽ばたく小さな翅は翡翠色。この場合の仲間とは敵を意味した。縄張りを主張して、二匹は楢の枝葉の間を上へ下へと飛び回り、離れ、近づき、交錯する。

 遠い山並みから朝暘が昇る。水平に差した光が楢の葉を透かし、あるいは間隙を通過して蝶たちに届く。蝶の翅は陽射しを受けて光沢を帯びた色彩を放つ。仄かに赤い光の中で、青とも緑ともつかない煌めきがふたつ。はらはらと揺らぎながら踊るように、遠く近く、上へ下へ。

 その営みは一帯で繰り広げられる。やがて興奮が極まり昂った蝶たちは林冠から飛び出して舞う。白波が小さく跳ねるように、あるいは火の粉が散るように、山々の至る所で翡翠に似た光が閃いた。
2022.11.12 Sat l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top