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 妻の寝息だけが聞こえた。隣からだ。半身を起こし目覚めた理由を考えたが、漠然とした不安が身体を蝕んでいくようで堪らず、喉が渇いた、ということにした。
 初めて盗みを働く空き巣のような慎重さでベッドを抜け出した。私の意思ではないが、目が覚めたことを後悔していた。仕事に摩耗した心身を癒すものはほとんど睡眠だけだった。惚れ込んだ妻の寝顔を見れば疲れも吹き飛ぶ、というのも、長期にわたれば流石に気休めでしかない。何時間眠れたのだろう。あと何時間眠れるのだろう。
 忍び足で居間に向かった。廊下は仄かに明るく、胃のあたりがズシリと重くなる。寝起きの逆説的な浮遊感だけが私を守っていた。本当にふわふわと浮き上がり、そのままどこかへ飛び去ってしまえれば良いのに。
 ドアを開けると海だった。海原のように秋草が一面を覆っていた。揮発性の枯葉の匂いが鼻を通り抜けていく。私は揺れるススキのような穂の間に分け入る。そこら中から虫の鳴き声が立ち昇っていた。繊細な無数の声が周囲に満ち満ちている。命を繋ぐ切実な合唱の波が私を呑み込んでいる。
 幻覚から我に返るのは一瞬だった。立っていたのは確かに見慣れたリビングだった。しかし虫の音はなおも世界を支配していた。私はベランダに続くガラス戸が開いていることに気がついた。
 サンダルを履きベランダに出て、さんざめく虫の音を浴びた。夜明け前だ。眼下の通勤路を新聞配達のカブが走っていく。その向こうに空き地があり、そのまま堤防、河原へと続いていく。雑草が生い茂る地帯。おそらく声の主たちはあのあたりにいる。
 空気が澄んでいるせいもあるのだろうが、音の大きさに驚いた。少なくとも、故郷でこんなに鳴いていた記憶はない。よく聞けば、鳴き声は一種類ではなかった。口笛のような音もあれば、切れかけの蛍光灯や理科で使う豆電球の光に喩えた方が相応しい、儚げな音もあった。昔習った童謡を思い出し、私は口ずさんだ。
 こうやって何もせずぼんやりと外を眺めたのは、ずいぶん久しぶりのことだ。
 誰もいないのに、ほどなく自分の歌声が恥ずかしくなった。空白地帯のような時間に、頭には妻の顔が浮かんだ。
 戸を閉めて寝室に戻った。変わらず寝息を立てている妻の顔を覗く。何も知らない無防備な寝顔に、頬が勝手に緩んだ。まだ幾ばくかは寝られるだろう。私も布団に入って目を閉じる。残響か、妻の寝息に混じり、微かに虫の音が聞こえた。

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2022.12.14 Wed l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top
#134『高嶺ヶ原』のモデルにした場所は大雪高原温泉というところです。高根ヶ原と呼ばれる領域の一端に位置しています。
森林限界に近く、7月まで根雪があり、11月には再び根雪になるという夏の短さ。その厳しさのなか繰り広げられる命の営みはとても美しいです。
一帯はヒグマの生息地であり、散策路は普通に登山道なので、訪れる際はそれなりの覚悟をしていきましょう。
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2022.12.03 Sat l 短編(サイト)関連 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 海を見ていた。
「君、ここの人?」
 道から外れよたよたと歩いてきたその女性は、小柄な身体に不釣り合いな大きさのザックを背負っていた。第一村人に思い切って話しかけてみた、という感じの顔をしていた。
「じいちゃん家なんです」
 僕は後ろの家屋を指差した。夏休み中、受験勉強のために滞在していたのだ。行き詰まると浜の近くまで出て、遠くを眺めるのが習慣になっていた。
「ここ、ちょっと置いてもいいかな」
 その人はオーバーサイズのTシャツを揺らして重そうなザックを下ろした。
「乗り継ぎ待ちですか」
 近所の駅は列車の接続が悪いらしく、旅客がよくカメラなんかを手に徘徊していた。
「そうだよ」
 一人旅の途中だという。聞けば学生で、大学のレベルは僕の目標より上だった。その人も僕の隣に立って手を後ろに組み、水平線を眺めた。
「海、綺麗だね」
 僕は同意した。斜め下にある胸元が目に入りそうで緊張した。これは逆ナンか? なんて思ったところで、
「あっ見て見て、ヒトデがいる」
 と彼女は走り出し、浜に降りていった。慌てて追うと本当にヒトデがいた。それまでは空と海と浜しかないと思っていたのに、波打ち際には赤や青や黄色の原色的なヒトデが驚くほどいた。
 面白くなり、彼女と僕は浜辺を探索した。巻き貝を被ったヤドカリ、色ガラスの空瓶、誰かに置き忘れられた白いテディベア。発見した物全てが真新しくて、次の瞬間には無性に懐かしかった。
「オバケたんぽぽ!」
 岩陰を見て彼女が言う。黄色い花が太い茎にいくつも咲いていた。こんな所に花なんてあると思わなかったから、確かに一見すると異様だった。しかし花の雰囲気はたんぽぽと少し違う。どちらかといえばーー
「ひまわりみたいじゃないですか」
 淡黄の小さな日輪たちが顔を寄せて静かに笑っている。彼女は「えーそうかな」と何故か照れ臭そうに言いながら観察していたが、おもむろに花のひとつをもぎ取ると、頭に添えてこちらを向いた。

 今年も花が咲いた。
 彼女のいた大学に入り、教わったサークルを訪ねたが、二年になるはずの彼女は既に退学していた。同期だった先輩でも連絡がつかないらしく、得た情報は地元の場所だけだった。
 夏が来るのが待ち遠しかった。あなたの痕跡に、いちいちあの花を想った。僕の大学生活は花だらけだ。もし会えたなら文句を言ってやろう。
 今日が出発日、ここが出発点だ。列車の時間を待ちながら、僕は海を見ていた。
2022.12.03 Sat l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top