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 窓の外の雪に、飼い猫と昔家で観た映画のエンドロールが重なった。遙か上空から群を成して延々と降りてくる白い名前たち。実際の方向などは定かでなく、確かな記憶は膝の温もりだけだった。雪まみれになって歩いてくる家庭教師を見つけた心愛はいそいそと玄関まで迎えに行く。

 家庭教師の名前が死んだ猫と同じ「ソラ」だということを、心愛は先週知った。彼のスマートフォンを盗み見た瞬間に、思い出は光線となって現在と過去とを激しく往来した。

 ハンガーを借りダウンの上着を部屋に干すと、家庭教師はいつも通り雑談から始める。彼の癖毛に残った雪が融けて光る。よく茂った頭髪に、心愛は胸の中で「冬毛」と呟いた。
 親と彼が名を心愛から隠したように、心愛も自らの発見を秘匿した。日常を守るためには秘密でなければならないと彼女は解釈していた。
 もっとも勉強に集中などできず、家庭教師の怪訝な顔から目を背けて時間ばかりが過ぎてゆく。

「ごめんねぇ、今日はコーヒー切らしちゃって」と母が差し入れたのはホットミルクだった。
「わぁ、いつもありがとうございます。牛乳好きっすよ」
 喉を鳴らして浮き出る顎の輪郭と静脈に心愛は目を奪われた。確かにソラはミルクが好きだった。

 気づけば指導が終了していた。再び上着を着、じゃあまた、と言ってドアの向こうに消える家庭教師の背中を、息を詰まらせたままの心愛は見送った。まもなく雪掻き用の長靴を履き、自らも外に出た。先を行く彼はすぐに気づき立ち止まった。
「どうした?」
「そこまで送ってあげる」

 一列で歩く二人に会話はなかった。ふかふかした背中を見ながら、心愛は名前を呼びたいと強く思った。
 何度息を吸っても、名前は出てこなかった。気持ちばかりが溢れて、他に手立てがなく、心愛は後ろから彼に抱きついていた。表面の冷たさの向こうに温もりがあった。しかし決して芯に触れることはできない温もりだった。
 恐る恐る心愛が離れると、家庭教師は振り返り、雪を優しく払うように心愛の頭を三度撫でた。

 家庭教師を見送った後、心愛は火照りが取れるまであてもなく歩いた。人のない道の上に厚く積もった新雪は軽かった。蹴り上げるように足を運ぶ。そのたび、きめ細かい雪は飛沫のように波立った。雪の中を歩き続けながら、ミルクみたいだ、と心愛は思った。

 夜中に熱が出て、治るまで三日かかった。家庭教師との契約が解消されたことを、心愛は翌週知った。
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2023.03.14 Tue l 未分類 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 僕は学生時代、貧乏サークルの部室みたいな部屋に居候していたことがある。歴代の部員が遺した本は積もり積もった埃みたいに沈殿していて、その中からふと手に取ったのが「個人的な体験」だった。冬の寒さから煎餅布団に逃げ込んで、ついでに学校の課題などからも逃避した勢いで一気に読んだ。衝撃、というほどの記憶はないが、面白かったことは覚えている。
 それから図書館に通い「死者の奢り・飼育」「洪水はわが魂に及び」「万延元年のフットボール」「性的人間」「新しい人よ眼ざめよ」など色々読んだ。乏しい僕の読書経験の中で、大江健三郎の作品は結構なウェイトを占める。個人的には初期も後期も読みやすい、というか興味を引き出してくれる文体だった。それと、故郷の自然に関する記述が特に好きだった。
 ご冥福をお祈りします。
2023.03.14 Tue l 未分類 l コメント (0) トラックバック (0) l top
 少女みたいに祖母が僕たちの距離感を揶揄うものだから、気を遣ったのか明希は僕の右手を掴んだ。それを持ち上げ僕に見せつけながら、
「恋人繋ぎしちゃった〜」と彼女はヤケクソ気味に笑った。温かな細い指がぐいぐい食い込んだせいで、手にはまだその感覚が残っている。
 そろそろ祖母と母が買い物なら帰ってくる時間で、僕は明希を起こしに祖父の書斎へと向かった。木製のドアを軋ませながら開くと、左手の窓際に置かれたソファの上で明希が頭をこちらに向け、静かな寝息を立てていた。
 何気なしには入ることのできない部屋だった。祖父の他界以降も祖母は毎週掃除機をかけているが、部屋の中は何となく時間が止まったような匂いが染み付いている。祖父がいた頃の匂いだ。
 丸い頭のつむじに近づく。まもなく、いつもとは明確に異なる匂いの存在に気づいた。気づいたというか、僕は少しだけそれを期待していた。明希の使っているトリートメントとか、柔軟剤とか、頭皮とか、そんな類だ。できれば部屋の雰囲気ごと塗り替えて欲しかったのだが、祖父の名残は強力だった。僕は部屋の奥にある祖父の机椅子に座った。揃えた両足をこぢんまりと畳んで横を向く明希は、窓の逆光に翳っていた。
 僕の脳みそは明希の香りを「懐かしいもの」と「新しいもの」のどちらに分類すべきか迷っていた。近所で育った明希は実の孫よりも祖父に懐いていた。引越しの時は祖父に抱きついて泣き、戻ってきた時は仏壇の前で泣いた。
 僕が嘘をついたか何かで祖父に酷く叱られた時も明希は祖父のそばにいた。明希と一緒に遊んでいたところ、険悪な雰囲気になるや明希は祖父の側についたのだ。あの明希の目は何を思って僕を見ていたのだろう。
 今、明希の目はどこを見るでもなしに薄く開いている。瞼がゆるいのか、昔からそうだった。時折白目になりながら無防備に眠る明希の寝顔を、僕は何度もこっそり眺めたものだ。起きたら指摘してやろう。手に残る生々しい感覚とは裏腹に、断絶された過去を覗くような気分が襲ってくる。
 ふと明希の袖を登るてんとう虫が目に入った。七つの星を背中に乗せて、短い足を忙しなく動かしていた。小刻みに休憩を挟み、幾つもの袖の襞を越え、明希の小さな肩のいただきに辿り着いたてんとう虫は、一呼吸おいてから翅を展開し、重たそうにどこかへ飛んでいった。
「明希」と僕は声をかけた。明希は微かに身じろぎをして、すうっと息を吐いた。
2023.03.07 Tue l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top