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 「死が怖いか」

 そう尋ねられている気がして、私は周囲を見渡した。曇天の下に枝葉が幾重にも重なって林冠は高く、林床の深い藪は1m先すらも見通せない。私が足を浸からせている川の、不気味なほどに澄んだせせらぎを除けば、風の音すら聞こえない。

 「死が怖いか」

 そう尋ねたのは私自身であるという事に気がついた。私の鼓動が、異常に猛々しく胸を掻きまわしていたのだ。私は初めて、自分が「どこにいるのか分からない」のだと思った。

 私は真っ黒なスーツを着ていた。他には、何も持っていなかった。それがなるがままに流れながら生き、社会に出てなお働くように働いた男の、なれの果ての姿だった。そうしていれば迷子になどならないと思っていた。

 だが、手を伸ばしたこともない希望や可能性の類が刻一刻と失われていくことに気付いた時、自分にはもう、此処に続く道しか残されていないのだと悟ってしまった。

 そして死へつながる道には、もはや迷子など存在し得なかった。

 なのに、なぜ私は今、「どこにいるのかわからない」のだろう。

 私は茫然と立ち尽くした。どのくらい歩いてきたのか、どうやってここに来たのか、私はどこまで歩くつもりでいたのだろうか。

 がぶり、という鋭い痛みを頭部に覚えて、思わず私は手をやった。掴んだものは、大きなアブだった。いつの間にか、その大群が押し寄せて、あたりは俄然騒々しい音に満ちていた。

 私は走り始めた。奥へ、奥へ。水しぶきを上げて、何度も転んだ。すぐに息が切れ、その度に立ち止まっては腕を振り回してアブを払った。段々と、私の口からは嗚咽が洩れ始める。鬱陶しくてかなわない。 全身が痛痒さに悲鳴を上げるようだ。

 不意に嗚咽が止まった。その先には気配があった。大柄な男が歩いて来るような、ゆっくりと藪をかきわける音。すぐ近く、目の前に……。

 彼の気配が消えたのちも、私は動けなかった。いつしかアブも姿を消し、かわりに雨が降り始めていた。

 現れたのは、黒い、巨大な獣であった。二つの目に、私は捉えられていた。深く永久に問い詰めるような視線。

 ……あれは、ヒグマだったのだろうか。私と対峙していたそれが、人間でなかったことは確かだ。しかし彼は、同時に何の矛盾もなく、私と同じ存在であるようだった。

 なんと生々しい生なのだろう。

 あらゆる空隙を喰らう時雨の音は、沈黙の他に何をも残さない。

 「死が怖いか」

 私は声を上げて泣き始めた。


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※『短編』(ttp://tanpen.jp/)第109回作品対決のでの投稿作品を再編集したもの。
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2011.11.10 Thu l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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