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冷気を吸い込む。そして吐き、私は奏でるべく物語を指でなぞるようにそっと弓を引いた。
続けて響いてくる、傍らのヴィオラ。そして二本のヴァイオリンが主旋律を震わせて、街角には僅かばかりの洒落た装飾が施され始める。
私は感じていた。抱えるチェロの重低音。それと一体になった私の魂が、夜風に溶け込んで通りすがりの耳へと滑りこんでいけばいい。この場所で、この仲間たちと、この時間に音を作るのが、私の現在の生活の中ではもっとも重要な位置を占めているイベントだった。そのすべてが調和して、私は深い安寧を得るのだ。昼の疲れも、悲しみも、楽しささえも溶けてしまって、残るのは心地の良いただ一つの芸術。私は芸術の中にいる。
今、商社のヒラとして駆けずり回る日ごろの苦労も、連絡が取れない恋人との色あせた思い出も、誰も気にかけることはない。かけがえのないチェロであること。それだけを犯さなければ、仲間達すら、私を人として見てはいないだろう。だがそれは誰しも、同じこと。
演奏が終わる。バラバラと拍手が鼓膜を揺らすので舞台の外に目をやると、数人の観客が足を止めてくれていたようだ。私は軽く会釈をしてから、目を見開く。
それから微笑んで手を挙げ、拍手を制した私は俯いたのち、おもむろに口を開けた。
「先日、あるピアニストが自殺たそうです。彼は遺書の中でこう嘆いていたといいます。『どれ だけピアノを高く評価されようと、僕が人間として見てもらえる日は、ついになかった』」
観客側から同情のため息が漏れてくる。ヴィオラは無言で調律を始めた。
「ただ、寂しがり屋の彼はどうしてほしかったのでしょう?彼が奏でる音色は、僕も好きでした。でも、それ以上のことは私も無関心だった。恋人でさえ、相手のすべてを理解することは不可能ですから。まさか彼が男女問わず何万人ものプロポーズを期待していたわけじゃないでしょうが」
下手なジョークだなと思いつつ、誰かが軽く笑ってくれたので少し温かな気持ちになる。
「今は、街燈に照らされた私たちの音楽だけを感じていただければいい。あなたが一体何者だったのか、私にもまだ分からない。だけれどそれは、結局誰しも同じことでしょう」
私は観客の一人に、まっすぐ目を向けた。淡く記憶の中で光を放つ、赤いコート。微笑む。
そして再び私は弓を引く。弦の振動は胴体の中で増幅され、ささやかな哀しみを滲ませることすらもなく、芸術の中に溶けていった。





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※サブタイトル「三ツ星カルテット」
小道具としての小話が重すぎたな。
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2011.12.14 Wed l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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