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 腐植の匂いが立ち込める休養林、父は笑っているが、アスレチックの上で動けない私は泣き出しそうだった。地上一メートル半ほどの丸太橋が横たわっている。微妙に傾いたそれに、私は差し掛かり、
「あっ」と言ったきり前にも後ろにも進む勇気を亡くしたのだった。丸太は滑りそうだ。どれほど注意すべきかもわからないから、警戒心が膨張する。
 緩慢に空間を覆うミズナラの緑と、樹幹が取り囲んでいる。その一つに背を持たれた父は、私の憔悴を理解しているのだろうか。泣くのを我慢しようとすると、今度は怒りが押し寄せた。父はあまりに大きいのだ。私が落ちたらどうなってしまうのかを察せていないに違いない。それにも気づかず呑気に笑っている。
「良し、下で落ちてもいいように構えてるから、思い切って渡ってこい」
「む、ずかしいよお」
 あまりに自信ありげに言う父の方がもしかすると正しいのではないか。少なくとも、私より父の方が正しいのだと、彼は確信しているのだろう。すると私の姿は、彼には滑稽に見えるだけだ。私は顔が赤くなるのを感じた。「大丈夫だ」と断言する父に関する自意識を持つ手前、「無理」とは言えなかった。
 穏やかにミズナラの葉が広範にわたってかさかさと揺れる。何分経っただろう。何が平和なものか。体勢が辛くなってきた、間もなく私は無様に落ちるだろう。安らかな休養林の真ん中で、これから自分は骨折しようとしているのかもしれない。森は平和を装って、危険に瀕した私を無視するばかりだった。父だけが私を見据えている。私を滑稽な姿としてとらえる彼を、私は信用してもよいのだろうか。トンボが飛んできて、鼻をその翅がくすぐった。己の限界点を嘲笑される屈辱に頭が燃える。
「嗚呼っ!」
 ミズナラの森は穏やかに陽斑を揺らす。配慮が徒労となった父は、あっけなく丸太を越え地上に降り立ち呆然とする私に近寄ってきた。笑いながら、
「おめでとう」と、極めて勇ましげな声でハイタッチを求めてくる。父の気持ちに、私は思いを馳せることができない。まだ幼かったのだ。言い訳でもあるが、事実だった。私は今更のように悔し涙を浮かべ、父の手を無視し、アスレチックを睨み付ける。事後であればこそ、骨折してみせたほうが良かった、と無責任な後悔はいくらでも出てきた。
 父と同じ背丈になっても、腐植の匂い、風の色、囲む樹群は変わらない。
 アスレチックは腐朽する。やがて土へと還るのだろう。

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※言うまでもないことだが、僕はミズナラという木が大好きである。
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2012.10.26 Fri l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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