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 旅館に数人の友達を連れて訪れた時の話である。日が暮れる頃に到着し、荷物を部屋に置くと我々はすぐに温泉に入った。温泉には露天風呂がついていたが、その日は雲が一面を覆っていたから、真の暗闇に、あぁ俺たちは本当に山奥に来たのだな、と思い知らされるばかりで長居しようとする者は一人もいなかった。
 酒盛りが始まると我々は声を大きくして騒いだ。どれだけ騒げば女将さんに怒られるか試してみよう、という誰かの提案だった。女将さんは全身から艶めかしさが溢れていて、男だらけだった我々の色欲は、女将さんの色気と酒の力によって余計に高められていた。
 便所に立っていたAという友人と、襖に対峙して座っていた私は目が合った。Aは他のものと同じように顔を赤らめていたが、彼の挙動にはどこか不審さが認められた。かと思うと、Aは他の者を憚りでもするかのごとく、忍び足で私のそばに来て
「ちょっと来てくれ」
 と耳打ちをするのであった。
 先ほどのAは、微かに緊張を滲ませていたのだが、玄関を出て、懐中電灯を片手に建物の壁に沿って歩き出すと一転、嬉しそうに前へ前へ進み言った。
「いくら騒いだって女将さんは来ないよ。俺、見たんだ。あの人、いまお風呂入ってる」
 彼は露天風呂の方へ向かっているらしい。おそらく入浴している女将さんの裸体を観察しようというのであろう。私は自らも興奮していることを認め、Aの後を追った。
 露天風呂よりも手前の壁際にちょうど柿木が立っていて、これを伝えば屋根に上れる、とAは小声で言う。
「危なくはないか」
「大丈夫。ひとまず俺が様子を見よう」
 Aは答えるや否や木に足をかけ、あっという間に屋根の上に降り立った。風のない暗闇の空にAの姿は完全に溶解した。
 私は待った。ところがいつまでたってもAが戻ってくることはなかった。女将が露天風呂に入るような音さえもしない――。
 急激に私は酔いがさめるのを感じた。懐中電灯を上に向けたが、光はすぐに霧散する。Aの名前を呼んでみたが、声は伽藍堂に響くようにおののくばかりであった。
 全てが暗黒を演じているのだ。彼らは私を無視するように、しかし意図的に私を呑み込もうとしている。そう思った瞬間、ここにいてはいけない、という本能が私を支配し、私は旅館の中へと息も忘れて逃げ帰った。私は客であった。だが「溶解」したAは……。
 翌日、女将は代役に代わっていた。そしてAは帰ってこなかった。

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※確実に1000文字では足りない感じでした。
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2012.11.09 Fri l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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