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「ばかやろう、いつ死んでもおかしくねえんだ」
 一時間前まで雨が降っていた渓畔の泥質土に、ヒグマの明瞭な足跡がついていた。それを見落とした後輩・小出隊員を呼び止めた楠本隊長は、しかし次の言葉を詰まらせ天を仰いだ。足跡が、彼らのやって来た沢の入口へと向かっているためだった。
 両岸迫り寄るV字谷を風が吹き抜け、一帯の草木が鳴る。
「うわ、すれ違ったんすかね」
 楽しくなってきた、と呑気にはしゃぐ小出隊員を叱り飛ばしたのはずっと後のことである。背丈を越える藪を掻き分けてどうにか沢を稜線まで詰め、隣の谷の源流に入り、中盤まで下ったところでようやく作業道に出会っても、楠本隊長は喉と両耳が緊張しっぱなしで大声が出せなかった。車の置き場所に戻ってくるまで、後ろで小出隊員は繰り返し森のくまさんを熱唱していた。
 伐開地のベース小屋に帰ると小出隊員はすぐに昼寝を始めた。踏査日誌とヒグマの痕跡報告書を書きながら、隊長は後輩への小さな嫉妬を奥歯で噛み潰す。ペンが止まって外を見やる。夏空の青さに目が痛む。
 あと三分で遭難の可能性を疑わねばならないという時刻になってB隊の車が帰ってきた。運転席からボロ雑巾のような吉村隊員が降りてきた。助手席の関隊員も似たような格好だった。とはいえ誰もそれを気にしない。汚いヤッケを羽織り、虫の集まるタオルを頭に巻くのが彼ら学生ヒグマ調査団の正装だった。
「収穫はあったか」
「めっちゃ採れました、タモギタケ!」
 色褪せたザックから、吉村隊員はジップロックを取り出した。本来熊糞を回収するべきその袋たちには、黄色いキノコがこれでもかと詰められている。大岩のポイント付近にあるオヒョウの枯木にびっしりと生えていたのだという。
「水に浸けておこう。今夜で食えるだけ食うぞ」
 明日には授業を終えた他の隊員たちが加勢する。山菜の取り分は調査の士気に関わる問題だった。
 助手席から降りた関隊員は着替えもそこそこに、外に戻って道端のオオイタドリやエゾニュウに鉈を振る。その音に目覚めた小出隊員も煎餅布団から抜け出して、二人は刈り取った棒切れを手にチャンバラを始めた。エゾニュウの重さに振り回されてゲラゲラ笑う。
「あいつらがバテたら、温泉にでも行くか」
 隣で日誌を書く吉村隊員に、楠本隊長は言った。
「おお、行きたいです!」
 上機嫌な声があがる。その前に報告会か、と考えながら、隊長は微かに沢の匂いを嗅いだ。

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短編(http://tanpen.jp/)第191期コンペ参加作品。
個人的には非常に思い入れの強い風景を描きました。
ゆえに決勝まで行けたのは嬉しく、優勝を逃したのが悔しいです。
立体的に読んでくださる方がいたので作品としては報われたかな。
と、趣味の世界に一喜一憂するほど現実がままならない。
ままならなさの象徴である(戦場ヶ原さん談)ところのコンビニに毎日通っております。
こんなときの拠り所を提供してくださる北村さんには感謝ばかりです(再三)。

ちなみに無粋な解説をしてしまうと、文章構成には明確な意図があります。
「ばかやろう、いつ死んでもおかしくねえんだ」という隊長の言葉は、森の中の沢において放たれた言葉です。
そして、文章は隊長が微かにも沢の臭いを嗅ぐところで締めくくっています。
要は「いつ死んでもおかしくない」環境である沢の存在が常に彼らの背景にあることをこの構成で示したかったわけです。
そのうえで思い思いに(我が物顔で)生きている若者たちを描く、というのが制作の動機でした。
のびのびパートを大事にしすぎて沢の存在が薄いという欠点はあるかもしれません。
いずれにせよ、テーマは「日々の危さと、それを踏み越える生命力」みたいなものです。
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2018.09.12 Wed l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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