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 今夜は星がよく見えるよ、と美結は言った。丘には二人の他に誰の気配もなかった。綺麗に見えなくては困る。ここにないあらゆるものから僕は逃げてきたのだ。
 上空のオオジシギに「だめだよ、今夜は星を見るんだから」と嗜める声。美結は楽しんでいるだろうか。それが気になるせいで、僕はまだ彼女の顔をよく見ていない。

 僕の担いできた三脚に、美結の抱えてきたプロミナーを取り付ける。流石にこの作業は体が覚えていた。手こずって美結に笑われた頃が嘘のように、自分の道具のように扱えた。しかし、星のことはまるでわからない。
「あれがデネブ」
「ブー、あれは土星」
 プロミナーを覗く。なるほど土星の姿が見えた。
「博識ですな」
 躊躇うように服が擦れる音。それから、
「わたしね、鳥を見るのが楽しいと思えなくなった時期があるの。代わりに星の勉強ばっかりしてたんだ」
 その時期は僕と親しくなる少し前だった。美結という人間は、一から十までずっと鳥が大好きなひとだった、わけではないらしい。いくつかの星座を教わるうちに、彼女に目を向けることに抵抗がなくなった。瞳が微かに星明かりを反射している。
「美結の一番好きな星はどれ?」
 小さく唸ってから、美結はプロミナーを覗き、調節した方向に指をさした。
「ぼんやりした光、見える?」
「うん」
「あれね、星じゃなくて、銀河なの」
 頭を殴られたような衝撃があった。目を凝らすが、眉間に力が入るばかりで仕方なく、美結に代わってレンズに目を当てた。空に浮かんでいる天体は小さくても確かに、本やテレビで見たような大銀河だった。途方もない世界が広がっていた。同時に、美結の匂いに気づいた。
 このプロミナーから眺めてきたものが、遠くの銀河と重なっては消えた。森林公園に現れたというアカショウビンを探した。ウミガラスを見に離島にも行った。ハヤブサの巣を観察しよういう美結の誘いが僕らの始まりだった。マンションに作られた巣の営みを、静かな講堂で息を潜め、僕らは窓から何時間も見守った。
「星じゃないけど、一番好き」
 顔を上げ、美結を見たが、咄嗟に声が出ない。勘違いなのはわかっていた。僕を待つ不確かな日常に、こんな星空はないのだ。それでも、美結のいた日々が宇宙の全てであるような気がした。そうあって欲しかった。

「覚えておくよ」
「うん」
 この日を、とは言わなかった。代わりに暗順応した目で、僕は美結の輪郭をキリキリとなぞった。

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短編競作サイト「短編」第192期参加作品。
アンドロメダ銀河をプロミナ―で観察したのは実体験です。
プロミナ―は望遠鏡の商品名で、野鳥愛好家が好んで使っているものです。
「ぼく」が美結のこと徐々にしっかり見るようになる過程を軸として、
思い出の存在感や儚さ、その裏に芽生える諦観なんかを書いてみました。
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2018.10.20 Sat l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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