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 標高千メートル付近の緩やかな稜線に木々は疎らだった。空の開放度合いから、千紗を取り囲むチシマザサは一帯に密生していると推察された。千紗は身動きが取れない。背丈を越えるササの海に勇んで飛び込み三十分、彼女は今、無数の稈と、その隙間で育った幾筋もの蔓に捕らえられていた。体は上向いて藪の中に浮き、目線はササの頂葉より少し低い位置にある。
 樹林を抜けるまでは良かったのに、と千紗は振り返った。沢筋が不明瞭になる頃には高木類の下から一旦濃い藪が消え、ミネカエデの洒落た黄葉が彼女を迎えた。枝は低いが這うほどではなく、見通しのきく林内は幼稚園のお遊戯会みたいに無垢に煌めいていた。新しい落ち葉の積もった腐葉土を踏みしめ、今日は気持ちの良い山行だ、と思っていたらこれである。
 稜線を乗っ越して向こうの谷に降りる当初のルートを遂行する場合、あと五十メートル、一時間以上は藪漕ぎが必要になると予想された。引き返す方が比較的容易ではあったが、体の向きを変えるという初手が既に困難だった。蝿の間延びした羽音を残して藪は沈黙した。朝露に濡れた体はゆっくりと冷えていく。
 服が捲れ、背中の下の方が外気に曝されていた。しかしシカの通った形跡はないことから、マダニが寄ってくる心配はあまりなかった。耳を澄ましてヒグマの音にだけ注意を払いながら、千紗は何もない空を眺めた。ここからはアスファルトの日々が見えなかった。蝿の羽音以外にやはり物音もなかった。死ぬかもしれないな、と千紗は考えた。死体は正しく動物に食われ、腐蝕し、土に還るだろうか。それともいつか誰かに見つかるのだろうか。
 思考が堂々巡りを始めた頃、甘酸っぱい香りを鼻が捉えた。千紗を拘束しているヤマブドウの蔓が匂いの発生源だった。黒く丸い漿果がたわわに実っていることに彼女は気がついた。ササの葉音を立てながら踏ん張って上体を動かし、漿果を一房摘んだ。二、三粒含むと、酸味が口内に弾けて唾液が出てきた。皮と種を吐き出せば可食部は僅かだった。口の寂しさに次から次へと食べた。漿果は無尽蔵だった。やがて際限がないことに思い当たり、千紗はひとりでくつくつと笑った。
 乗っ越しの方向に、老いたダケカンバの白く太い幹が突き出ているのが見えた。まずはあそこまで行ってみよう、と千紗は考えた。冷静に体を捻ればここからは抜け出せそうだった。乾いた音とともに、甘酸っぱい匂いが立ち昇った。

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こういう時間って贅沢じゃないですか。
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2019.08.10 Sat l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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