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 どこかで鐘の音がした。凍てつく湯気を裂いて彼は走り出す。たちまち顔が強張る。全天の夜空が身体を押し潰そうとする。淡々と脚を動かすうちに血が巡り、痺れに似た一波の痛みが体の末端から末端へと通過する。不純物のない夜気が肺を洗っていく。
 道は高台を行く。遠くに木々が黒々と鎮座し、まるで静止している。梢に猛禽の影が二つ。緩い谷を越える橋の途中、段丘の下方に広がった街あかりが見える。地方都市は夜に沈んでいる。
 夜闇を走るとき、彼には父も母も兄弟もいない。彼の虚構の孤独を夜は黙殺した。澄んだ反響だけが彼の耳の奥に届いた。
 すぐに緩い切り通しが景観を遮り、法面に生えた丈の長い枯草が袖を掠める。電波塔を過ぎると人家が現れる。最初の交差点を曲がって下り坂が始まり、あの街あかりへと降りていく。
 地面から脚に伝わる律動的な衝撃。滑らかな氷が断続的に蔓延っている。油断した一瞬、凍結面の反発を捉え損ねて派手に転倒した。が、受け身を取った彼はそのまま走り続ける。左手の痺れが軽い出血を示唆した。
 きっかけはあったが、既に意味をなしていなかった。理由は失われている。見慣れた校舎がそびえ立つ広い敷地の正門前で一度足を止める。睨んでも、唾を吐いても分厚い壁は反応しない。こうして毎日高校には「通っている」。それを知る者はいない。
 街の中を抜け、今度は湖のほとりに敷かれた長い坂道を一気に駆け上がる。結氷した湖面は雪を被って仄白い。湖底に沈んだ死体は浮いてこないらしい。
 登り切る頃には心臓が止まりそうになる。膝に手をついて荒い息を整える。確かなものが欲しかった。自分自身の不確かさで今にも心身が千切れそうだった。肉体的苦痛は厳冬の夜と等しく彼を安堵させた。勝手に流れる涙を拭う拍子に触れた前髪は凍っていた。
 街路樹を数えながら脚を動かす。閑散とした住宅地を街灯が疎らに照らす。赤い実の房がいくつもの枝先で萎びている。
 昔好きだった和菓子屋の前を通る。廃墟に見えた。いつ食べたかも覚えていない素甘の味が口の中に滲んだ。本当は血の味だった。この頃はいつも、彼は無意識に歯を強く食いしばっている。
 巨大な冷気が沈澱していた。雲はなく、放射冷却が亢進する。家が近づき、徐々に走る速度を落としていく。彼は単なる子供だった。父も母も兄弟もいた。生活もあった。ただ一切は空疎で、誤りで、泡沫で、無価値だった。確かなものが欲しかった。
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小説コンペサイト「短編」第244期応募作品です。
http://tanpen.jp/244/
感想をくださった方々ありがとうございました。
ただし、本コンペでは最終稿を落としてしまったので、当サイトには最終のものを載せておきます。

「餓鬼」というのはもともと仏教用語で、「常に飢えと乾きに苦しみ、食物、また飲物でさえも手に取ると火に変わってしまうので、決して満たされることがないとされる」そうです。仮にどれほど恵まれても満たされることはないんだとか。主人公も恵まれていながら苦しんでいるわけです。その不甲斐なさから逃避するひとときを描きました。
中学生くらいのころに美術館の展示で、餓鬼と餓鬼が馬跳びをして遊んでいる像を見たことがあり、衝撃を受けたことなんかも思い出しました。
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2023.02.09 Thu l 1000文字小説 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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